デジタルスキャンで変わる歯科治療:印象材不要の新時代 三浦さやか, 2025年5月3日2025年5月28日 最終更新日 2025年5月28日 by 三浦さやか 「歯医者で口の中に押し込まれる、あの粘土のような材料がどうしても苦手で……」そんな患者の声は、長らく歯科現場における“あるある”でした。 しかし、近年登場した「デジタルスキャン」技術が、この不快体験を過去のものにしつつあります。口腔内スキャナー(Intraoral Scanner, IOS)を用いたデジタル印象採得は、従来の印象材を用いた歯型採取に取って代わる可能性を秘めています。 私は歯科医師であり、長年にわたり歯科医療を取材してきた医療ライターとして、この技術革新に強い関心を抱いています。なぜなら、それは単なる技術的進歩にとどまらず、患者体験、現場の働き方、歯科技工との連携、そして「美しさ」の基準そのものにまで波及する深い変化をもたらしているからです。 本記事では、従来の歯型採取の問題点から、デジタルスキャン技術の仕組みと実際の活用事例、そしてその光と影に至るまで、多角的に掘り下げていきます。 目次1 従来の歯型採取法とその課題1.1 印象材の役割と限界1.2 患者にとっての負担とは1.3 現場の声:技術者・歯科医師の実感2 デジタルスキャン技術とは何か2.1 IOS(口腔内スキャナー)の仕組み2.2 主な機種とその違い2.3 精度と再現性:どこまで信頼できるのか3 現場で進む導入とその影響3.1 クリニックでの導入事例3.2 治療の効率化と患者満足度の変化3.3 歯科技工との新たな連携4 技術進化の光と影4.1 見落とされがちな課題:初期投資と教育4.2 データ管理とプライバシーの懸念4.3 技術に置き去りにされる患者はいるか?5 審美歯科における可能性と問い5.1 セラミックとの親和性と仕上がりの美しさ5.2 「美しさ」とは誰の基準か?5.3 骨董と歯科:素材に宿る価値の再考6 まとめ 従来の歯型採取法とその課題 印象材の役割と限界 歯科治療における印象採得(型取り)は、被せ物や詰め物、マウスピースなどを作る上で不可欠な工程です。従来は「アルジネート」や「シリコーン」と呼ばれる粘土状の印象材を用い、患者の歯列や噛み合わせの形を物理的に写し取っていました。 しかしこの方法には、いくつかの限界がつきまといます。印象材の硬化過程での変形や気泡の混入、温度・湿度の影響などにより、再現性が不安定になりやすいのです。 また、採得後に石膏模型を作成し、それを技工所に送るというプロセスが必要なため、時間的・物理的コストも大きく、情報のやり取りにミスが生じるリスクもありました。 患者にとっての負担とは 「オエッとなってしまう」「長時間口を開けていないといけない」「味や匂いが苦手」――これらは、印象材による型取りに対する典型的な患者の訴えです。 特に嘔吐反射の強い方や小児・高齢者にとっては、大きなストレス要因となってきました。結果として、治療へのハードルが上がり、通院の中断や遅延を招くケースも少なくありません。 現場の声:技術者・歯科医師の実感 印象材の使用には、技術者の熟練度が強く問われます。材質選定、硬化タイミング、トレイの装着角度、患者の協力度など、微細な要因が仕上がりに影響を与えるからです。 「一発勝負での緊張感が常にある」「模型にズレがあると、補綴物の再製作になってしまう」――こうした歯科医師や歯科技工士の声からは、従来法の脆弱性と限界が浮かび上がってきます。 デジタルスキャン技術とは何か IOS(口腔内スキャナー)の仕組み 口腔内スキャナー(Intraoral Scanner, IOS)は、歯や歯肉の三次元情報を直接スキャンして取得する装置です。 その基本的な仕組みは、光を対象に照射し、反射した光をセンサーで捉えて形状を解析するというもの。この光学データをもとに、リアルタイムで3Dのデジタル模型が生成されます。 従来のような印象材も石膏模型も不要となり、スキャン完了と同時に精密な歯列のデータが手に入る――まさに革新的な技術です。 患者にとっても、口腔内に細長いスキャナーをわずかに差し込むだけで済み、不快感や嘔吐反射の心配はほとんどありません。 主な機種とその違い 現在市場に流通しているIOSには、いくつかの主要ブランドがあります。 iTero(アライン・テクノロジー):インビザライン矯正で有名。最新機種「iTero Lumina」は、従来の3倍のスキャン範囲と2倍のスピードを実現。 Primescan(シロナ):高精度・高速スキャンが特徴で、セラミック修復との相性も良好。 TRIOS(3Shape):AIによるスキャン補正やカラースキャン機能があり、視覚的にも分かりやすい。 それぞれに強みがあり、導入するクリニックの診療スタイルや目的によって選定されます。 精度と再現性:どこまで信頼できるのか デジタルスキャンの精度は、近年劇的に向上しています。 特に最新機種では、複数のカメラとAI補正を組み合わせることで、複雑な歯列や奥歯までくまなく、かつ正確に再現できるようになりました。 研究では、デジタル印象の再現精度が石膏模型と同等、もしくはそれ以上という結果も報告されています。また、スキャンデータは何度でも確認・修正が可能で、再スキャンも容易です。 この“やり直しがきく”柔軟性こそが、現代の歯科治療において大きなアドバンテージとなっています。 現場で進む導入とその影響 クリニックでの導入事例 現在、多くの歯科クリニックが口腔内スキャナーの導入を進めています。都市部に限らず、地方の中規模歯科医院でも導入が始まり、技術の普及は着実に広がりを見せています。 たとえば、神奈川県のある歯科医院では「Primescan」の導入により、補綴物の再製作率が大幅に低下。以前は1割ほど発生していたやり直しが、導入後はほぼゼロに近づいたといいます。 また、来院からスキャン終了までの所要時間も短縮され、1回の治療にかかる時間が平均20〜30分ほど削減されたとのこと。こうした変化は、医院全体の診療効率の向上に直結します。 治療の効率化と患者満足度の変化 デジタルスキャンは、ただ便利な道具ではありません。患者体験そのものを改善する強力な要素です。 1. 嘔吐反射のある患者でも安心して治療できる2. スキャン中にリアルタイムで画像が確認できるため、説明が視覚的で分かりやすい3. 型取りに関する不快な思い出を払拭できる こうした利点は、患者の心理的ハードルを下げ、通院へのモチベーションにも好影響を与えます。実際に、導入クリニックでは「治療が快適だった」「何をされているのかが見えて安心できた」といったフィードバックが寄せられているとのことです。 歯科技工との新たな連携 デジタルスキャンによるもう一つの大きな変化は、歯科技工所との連携方法です。従来は、物理的な模型を郵送し、それに基づいて技工物を製作していました。 しかし現在は、スキャンデータをクラウド経由で瞬時に共有でき、設計から製作までのタイムラグが劇的に短縮。さらには、データを用いたCAD/CAMによる補綴物製作が可能になり、精度も安定しています。 これにより、技工士が歯科医師からの細かいオーダーに迅速に対応できるようになり、治療の質がさらに向上しています。 技術進化の光と影 見落とされがちな課題:初期投資と教育 デジタルスキャン技術の導入には、大きな恩恵がある一方で、現場にとって無視できない課題も存在します。その一つが、高額な初期投資です。 高性能な口腔内スキャナーは、1台あたり数百万円にのぼるケースもあります。加えて、スキャナーに連動するCADソフトウェアやPC、さらにはデータ送信のためのネットワーク環境も整える必要があります。 また、機器を正しく使いこなすためには、スタッフ教育も不可欠です。スキャンの角度や速度、口腔内の状態による補正の仕方など、機器の性能を最大限引き出すには、トレーニングと実践の積み重ねが求められます。 小規模医院や高齢の歯科医師にとっては、このハードルが普及の障壁となっている現実もあるのです。 データ管理とプライバシーの懸念 デジタル化が進むことで、患者データの管理という新たな課題も浮上します。 スキャンによって得られる3Dデータは、非常に高精度かつ個人識別性の高い情報です。この情報をどこに保管し、誰がアクセスできるのか、セキュリティ体制は万全なのか――そのすべてが、クリニック側に問われる責任となります。 クラウドでのデータ共有が主流になる今、ハッキングや情報漏洩のリスクは決して他人事ではありません。医療機関としてのデジタルリテラシーの向上と、法的・倫理的な枠組みづくりが求められています。 技術に置き去りにされる患者はいるか? 新技術は、ともすれば「恩恵を受けられる人」と「取り残される人」を生む可能性があります。口腔内スキャンも例外ではありません。 たとえば、重度の顎関節症で大きく口を開けられない患者や、極端な不正咬合の症例では、スキャンが困難な場合もあります。また、高齢者や認知機能に課題のある患者には、従来の印象法のほうが適している場面もあるでしょう。 つまり、すべてをデジタルにすればいいという単純な話ではないのです。患者の個別性を見極め、技術を柔軟に選択する姿勢が、歯科医師にはいま求められています。 審美歯科における可能性と問い セラミックとの親和性と仕上がりの美しさ 審美歯科の分野において、デジタルスキャン技術は特に大きなインパクトをもたらしています。その理由の一つが、セラミック素材との親和性です。 セラミックは、天然歯に近い透明感と質感を持ち、審美性に優れた素材として広く使われています。しかしながら、わずかな形状のズレや色調の差異が仕上がりに影響するため、極めて精密な型取りが要求されます。 デジタルスキャンでは、これまで難しかった微細な凹凸や色味まで把握可能になり、補綴物のフィット感や自然な仕上がりが格段に向上します。とくに色調分析機能を備えたスキャナーでは、周囲の歯との調和まで考慮した設計が可能です。 これは単に“美しい歯”を作る技術ではなく、“より自然な口元”を再現する力を持っているのです。 「美しさ」とは誰の基準か? ただし、ここであえて問い直したいのは――**その「美しさ」は誰のためのものか?**という視点です。 スキャン技術によって得られる「完璧な形」や「左右対称の歯列」は、あくまでも工学的な理想に基づくものです。しかし、実際の人間の口元には、個性や味わいがあり、その“ゆらぎ”こそが自然さを形作っています。 歯科医師や技工士の側が「美しさ」を一方的に定義しすぎれば、患者自身の価値観や希望が置き去りにされかねません。本来、審美歯科とは“その人らしい笑顔”を引き出すための医療であるべきなのです。 私は臨床でも取材でも、患者の「こうなりたい」という声を、丁寧にすくい取ることの重要性を常に感じています。技術が進化すればするほど、その“聴く力”が試されているのかもしれません。 骨董と歯科:素材に宿る価値の再考 私は個人的に骨董や陶磁器を集める趣味があります。その中で感じるのは、**素材が持つ「時間の質感」**です。 セラミックという素材には、人工的でありながら、どこか土や石に近い“原初の存在感”があります。それが歯という身体の一部に使われたとき、不思議な調和が生まれるのです。 最新技術によって緻密な補綴物をつくることは可能ですが、それだけでは語り尽くせない価値が、素材そのものに宿っていると私は思います。歯科医療が工業製品化していく中で、「物としての歯」をどう捉えるかという問いも、私たちの足元にあるのかもしれません。 まとめ 口腔内スキャナーによるデジタルスキャン技術は、歯科医療にとって単なる作業の効率化ではありません。それは、患者の負担を軽減し、治療の質を向上させ、歯科技工との連携を再構築する、本質的な変化をもたらすものです。 私たち歯科医療従事者は、この変化を単に“便利”として受け入れるのではなく、その裏にある倫理的・文化的な問いにもしっかりと目を向ける必要があります。 とりわけ審美歯科においては、「美しさとは何か」「誰のための美なのか」という問いがより一層重要になります。技術が進化すればするほど、私たちは“人を見る”力と、“人に聴く”姿勢を強く求められるのです。 私はこれからも、医療ジャーナリストとして、そして一人の歯科医師として、技術の進化が患者とどう出会い、何をもたらすのかを見届けていきたいと思います。 あなたにとって、快適な歯科治療とは何ですか?それは短時間で終わることかもしれません。それとも、安心して任せられる対話があることかもしれません。デジタルスキャンの登場は、そんな一人ひとりの“理想の歯科体験”を考えるきっかけになるのではないでしょうか。 関連記事: セラミックの歯科材料:安全性と耐久性について知る 中級者向け!セラミックの素材別比較ガイド:ジルコニアからE-maxまで 材料